魚垣を生んだ明和の大津波
宮古島は周囲を海に囲まれ、豊かな海産資源に恵まれています。かつての先人たちは潮の満ち引きを利用して効率的に漁を行っていました。その方法が、魚垣(かつ)です。満潮時には水面に隠れ、干潮時に顔を出すように、沖から岸にかけて放射状に積まれた石垣です。
魚垣(かつ)
1850年ごろに善平マツという女性が考案し造った魚垣。魚が満潮時に中に入ってきたら、干潮時に出ようとしても狭い出口に閉じ込められてしまいます。そこで魚は仕掛けられた網にかかり、まさに一網打尽というわけです。
この魚垣は海底の地形に合わせて高さが調整され、広さ約3,000㎡に及ぶ規模で魚を追い込んでいました。潮の干満を利用した潮干狩りの魚版と捉えるとダイナミックな漁法で、地引網のように毎回広く網を張る必要がないという点においていも効率的な漁法でした。
現在は遺跡として文化財指定を受け、下地島空港滑走路の東側に保存されています。
大津波が運んできた巨岩
また、伊良部という地域にある魚垣は、大津波がきっかけでできたといわれています。
1771年に起こった地震により発生した大津波(明和の大津波)により、宮古・八重山で11,000人以上の犠牲者が出ました。
この災害により地形が大きく変わり、大小様々な岩塊が岸や陸に打ち上げられ、「佐和田の浜」の不思議な景観が生み出されました。
津波石には魚が好んで隠れるため、その魚を取るために魚垣として津波石を積み上げるアイデアが生まれたのではないかと考えられています。
佐和田の浜から少し離れた場所に鎮座する、外径59.9メートル、高さ12.5メートル、重さにして推定約20,000トンの大岩、「下地島の巨岩」も津波石の一つです。
このような自然災害のスケールの大きさと、その後人々が岩を巧みに利用して工夫した姿が感慨深いです。これらの文化財の周囲にはエメラルドグリーンの海が広がる絶景スポットですが、ぜひ、自然の厳しさと人々の知恵が融合したこれらの文化遺産を訪ねて、歴史に思いを馳せてみてください。
訪問先ショートムービー
体験スポット名 | 通り池 |
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滞在時間 | 30分 |
備考・注意点 |
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