なまり節加工場訪問

    食文化

    宮古島のカツオ文化


     宮古島のプライベートガイドでご案内する友利真海さんが作るカツオの「なまり節」を紹介します。なまり節とは、カツオを茹で上げ、薪窯から上がる熱と煙で焙乾(燻し乾燥)したものです。
     なまり節はさまざまな使い方で美味しく食べられます。炒めたり、煮たり、汁物に入たりしても、カツオの出汁や旨みが料理に溶け出して美味しい。ポン酢やマヨネーズで和え物にしたり、サラダやサンドイッチに入れたりしても、噛む程に旨みがにじみ出ます。

    伝統保存食 なまりぶし

    希少な伝統技術〜手火山式の焙乾〜

     カツオを並べた蒸籠を窯の上に載せ、火に近い距離で焙乾することで、カツオの旨みを中に閉じ込め、芳ばしい香りとともに、中はしっとりとした、なまり節ならではの仕上りが生まれます。
     真海さんが薪に使うのは、宮古島に自生するモクマオウという樹木。火力や火持ち、香りの具合やカツオの風味を邪魔しない最適な薪だそうです。

     手火山式の焙乾は、江戸時代から続く伝統技術。直にカツオに手で触れて温度を測りながらきめ細かな火の調整が必要で、手間がかかり量産に向かないことに加えて、熟練の技が必要なことから、いまではこの製法を伝承している工場は国内僅少だそうです。
     真海さんが先代から技術を伝承する際、「いま、薪を2本くべなさい」という指示が出たことがあったそうで、2時間近い焙乾工程のなかで、指示のタイミングと薪の数の絶妙さに、その技術の繊細さを実感したそうです。

    伝統なまり節の製法を守り継ぐ友利さん

     真海さんの作業風景や所作を見ていると、あまりにもスムーズで自然過ぎて、素人にはその技術の凄さに気づくことすらできません。代替りしてから、カツオと火の距離をさらに縮め、芳ばしさを高める改良を続けてこられたというから、真海さんの職人としてのこだわりに感嘆します。

    ①カツオ漁の開始~急成長
     1907年に宮古島でカツオ漁が始まり、急成長を遂げ経済も活況を呈しました。漁船数やカツオ節工場の数など漁業関連従事者数が増え、「池間島の茅葺きの家屋が一掃された(瓦葺に姿を変えた)」といわれるほどでした。一方で、「北上する春の初ガツオ」や「南下する秋の戻りガツオ」といわれる通り、黒潮に沿って南方と三陸沖の間を回遊するカツオの特性から、年間通して漁獲量は安定していませんでした。

    佐良浜漁港の風景(1963)沖縄県公文書館所蔵

     1929年には、年間を通して安定した漁獲量が期待できる南方に活路を広げます。サイパン、ニューギニア、ソロモン、ボルネオなどに鰹節工場などの拠点を構えました。当時は父と息子が南方へ行けば1年で御殿が建つといわれていました。宮古島の漁師の実力は、カツオ漁に使う生餌の確保の為に、水深20メートル以上まで素潜りして魚を網に追い込むアギャー漁やG‌P‌Sのない時代に天測航法で南方まで航行していた技術に裏づけられていました。

     1941年以降、戦時中の操業停止期間を挟んで、1960年には南方漁が再開され、県内随一のカツオ水揚げ量を誇りました。その後、第一次(1973年)、第二次(1979年)オイルショックによる燃料価格の高騰や200海里(排他的経済水域)の制定による漁業権の規制(1977年)などの逆風が吹き、1981年に南方漁は終焉を迎えます。

    ③パヤオ漁の開始~安定した近海漁
     1982年に浮き漁礁を設置して日本初となるパヤオ漁を始め、年間通して安定した漁獲に向けた復活劇を開始します。これは流木などの海上の漂流物に回遊魚が集まる習性を利用した魚を集める仕掛けです。南方漁の終焉直後に日本初の技術に挑戦する気概に、誇りとたくましさを感じます。
     今は大型外国船の巻き網漁による水産資源の乱獲が国際問題になっているなか、地道に伝統文化を守り継ぐ真海さんのなまり節は味わい深いです。

    現在の佐良浜の街並み(2022)

    訪問先ショートムービー

    https://alternative-tour.co.jp/wp-content/uploads/2021/11/matsumoto2-300x300.png
    ガイド松本

    質問

    https://alternative-tour.co.jp/wp-content/uploads/2023/05/tomorisan.png
    友利さん

    コメント

    体験スポット名なまり節加工場見学
    滞在時間60分
    備考・注意点

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